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映画『メッセージ』本予告編

 

 

 ようやく映画『メッセージ』を観ました。すげー面白かったし俺は楽しめたけど、「いったい誰に向けて作った映画なんだ?」感は否めない。これ、ガチガチなSFファーストコンタクトものを期待した人も、お涙ちょうだいなヒューマンドラマが好きな人も、みんな肩透かしを食らったような印象を抱くのではないか?

 ストップウォッチで計りながら観たわけじゃないのでテキトーだけど、一応3幕構成で分析しておこう。

 まずオープニングでは、印象的な娘の成長と死がフラッシュバックで描かれる。UFOの登場と社会の反応はTVニュースのモキュメンタリー映像で提示。シャマランの『サイン』以降、定番となった演出だ。『第9地区』とかにも同じ演出が使われている。主人公が軍に協力を要請され、異星人と最初のセッションをするシーンが(たぶん)第1ターニングポイント。

 第2幕の前半では、異星人とコミュニケーションを取ろうと四苦八苦する主人公たちが描かれる。「学んだ言語によって現実の認識が変わる」という重要な設定の説明も、ここでさらりと挟まれる。異星人の表意文字を読み取り、解読が一気に進むシーンが(おそらく)ミッドポイント。

 第2幕の後半は、国際関係がもつれていく様子が描かれる。また、娘のフラッシュバックが増えていく。ついに中国が宇宙人に対して宣戦布告。主人公たちも撤退を余儀なくされるシーンが(きっと)第2ターニングポイント。

 第3幕では、主人公は一人で宇宙船に乗り込む。異星人と会話するクライマックスシーンがあり、さらに時空を超えてゲットした電話番号により中国の軍隊のトップを説得。危機を回避する。物理学者のイアンと結ばれたことを示して、幕。

 この作品には映画的なトリックがあって、それが鑑賞を難しくしている。そのトリックとは、フラッシュバックの使い方だ。普通の映画作品では、過去の記憶を描く技法としてフラッシュバックが用いられる。ところが本作に挿入されるフラッシュバックは「未来の記憶」なのだ。それに気づかないと、ストーリーを読み解けなくなってしまう。

 映画史はあまり詳しくないので分からないけれど、90年代の『逃亡者』のヒット以降、大衆娯楽作品でもフラッシュバックが多用されるようになった……という印象がある。マット・デイモンの『ボーン』シリーズなんかは、フラッシュバックの使い方が抜群に上手い成功例だ。

 一方、本作のように未来予知の演出としてフラッシュバックを使う作品も、じつはそんなに珍しくない。『バタフライ・エフェクト』なんかは代表か。あと、俺は見ていないけれどニコラス・ケイジ主演の『NEXT』という映画があって、たぶん間違いなく「未来予知をフラッシュバックで描く」というワザが使われているはず。

 余談だけど、ニコラス・ケイジが主演ってだけでクソ映画(※褒め言葉)っぽい印象になる現象に名前つけたい。

 とはいえ、未来予知の映像をフラッシュバックで挿入する場合、「これは未来ですよ」と観客に分かるように作る。ところが、『メッセージ』はそうなっていない。未来予知の映像を、まるで過去の記憶であるかのように観客に提示している。作中の異星人たちが持つ「過去と未来の区別がない状態」を、映像的に表現しているのだ。

 たしか第2幕の後半だったと思うけど、「あの子は誰?」みたいなセリフを主人公が言うシーンがあって、それで俺はトリックに気が付いた。今までの回想シーンは、回想じゃなくて未来予知だったのね、と。

 他国の言語を学ぶと、脳の構造が変わって物事の認識が変わるという説が、本作では紹介されている。主人公は「時間という概念のない異星人の言語」を学んだことで脳の構造が変わり、未来を予知できるようになった、だから自分が将来産む子供のことや、未来の国際会議で入手する中国軍人の電話番号を知ることができた……というのが本作の種明かし。

 たぶん主人公は未来予知の能力がもともとあって、それが異星人との交流で花開いた……と考えたほうが正確かも。おそらく原作者は、「ヒトは誰でも未来予知の能力を少しくらいは持っている」みたいな考え方の人だと思う。この宇宙のどこかにはアカシック・レコードがあって、人類は生まれながらにそのレコードにアクセスする能力を持っている、みたいな思想だ。あるいは、「自由意志は物事の結末を変えない」という決定論的な世界観の持ち主。

 でも、これさー、SF作品に慣れている人じゃないと読み解けないと思うよ。

 かつて木村拓哉が未来から来たロボットを演じるTVドラマがあったけれど、「一般的な視聴者には難しすぎる」という批判があったらしいじゃん。キムタクのドラマでさえ難しく感じるのが「一般的」だとしたら、『メッセージ』の物語構造なんて東大入試レベルだ。教科書をマスターしておけば解けるけれど、まず教科書をマスターしている人が少ないですよね、みたいな。

 エンディング・テロップが流れ始めた瞬間に1/3くらいの人が席を立った。たぶん、あの中にはストーリーが分からず置いてきぼりを喰らった人が少なからず含まれていたはず。無理ないよね。この映画、わりと不親切だもん。

 本作の究極のテーマは、主人公が終盤に発するセリフに込められている。「将来のことが分かるとして、あなたは選択を変えるか?」というもの。娘がやがて難病に犯され死ぬことを、主人公は知っている。それでも主人公は選択を変えず、結婚&出産を選ぶ。

 だからこそ、ラスト近辺の娘が芝生を走り回るシーンは涙を禁じ得ない。たとえ死ぬことが分かっていても、その子が生きている瞬間に幸せであることが、親にとっては無上の喜びなのだ。「不治の病で苦しませることが分かっているなら、最初から産まないほうがいい」なんて判断を、主人公は下さない。

 ここまで書いて、やっと本作の「感想」に着手できる。

 正直にいうと、本作で描かれている世界観はあまり好きじゃない。決定論的すぎるし、運命論的すぎるからだ。俺は自由意志の存在を信じるし、それによって未来は変えられると信じている。娘の病死という悲劇が分かっているのなら、方法はどうあれそれを回避する努力をすべきだ。

 たしかに脳はコンピューターであり、俺たちが「意志」と呼ぶものは生理的な化学反応に過ぎない。けれど、それは自由意志の存在を否定することにはならない。なぜなら、ヒトの脳には統計的なぶれがあるからだ。

 たしかに統計的には、ヒトの脳の反応を分析できる。ある写真を見せたときに、N%の人がAという反応を見せて、M%の人がBという反応を見せる……といったデータが採れる。そのデータにもとづいて、脳の仕組みを再構築することもできるだろう。

 しかし、だから何だというのだ。

 ある個人がAとBのどちらの反応を選ぶのかは、あくまでも統計的・確率的なものだ。そこに自由意志が入り込む余地がある。1000人のデータのなかでは「確率的」に見える反応でも、あなた個人のレベルではあなたの自由意志が下した判断なのだ。アインシュタインは間違っていた。神はサイコロを振るのが大好きだし、この宇宙は決定論的な世界ではありえない。運命など存在しない。

 そもそもヒトと異星人との間では脳の構造が完全に違うはずなので、言語の翻訳はあんなに簡単にはできないはずだ。ましてや異星人の言語を学んだら未来が見えた! なんてこともありえないよね(※野暮なツッコミ)。

 2016年というタイミングで本作が公開されたことに、いろいろと考えさせられる。ハリウッドで映画を作っている連中は、大半がリベラルな左翼だ(※暴言)。5年前にはウォール街を占拠していたようなやつらである。彼らからしてみれば、この世界が決定論的なものだという諦念を抱くのも無理ないだろう。努力しても世界は変わらない、ちょっとやそっとでは歴史の流れは変えられない。そんな絶望感のなかで、それでも人生に希望を持とうとした結果、こんな映画が産み落とされたのではないか。

「将来が分かっていたら選択を変えるか?」という哲学的な問いは、ヒューマンドラマ好きな観客が喜ぶテーマだ。が、そういう映画ばかりを見ている観客に対しては、『メッセージ』の物語構造は複雑すぎて不親切だ。

 一方、SFのファーストコンタクトものとして見た場合にはどうだろう? 俺がこのジャンルに期待するのは、「人類はもはや孤独ではない」みたいな、宇宙の広大さを感じさせる壮大なテーマだ。ところが『メッセージ』は、結局のところ主人公の個人的な人生の問題にフォーカスしている。これって別にファーストコンタクトものでやらなくてもよくない? って感想を抱いてしまう。

 というわけで、冒頭の「この映画は一体どんな観客に向けて作ったんだ?」という印象を覚えた。

 宇宙船内に初めて入るときの「重力が制御されていることを示す演出」なんかは最高で、異星人の卓越した科学力が一発で伝わる良シーンだと思う。あと全体的に音響がおどろおどろしくてイイ。映像的には地味めのシーンが続く作品だけど、ホラー映画っぽい音響によって緊張感を保っている。意欲的な実験作って感じ。

 こういう「SF」+「ヒューマンドラマ」の作品では『エターナル・サンシャイン』が最高すぎるのでみんな見てね。

 


エターナル・サンシャイン